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「あの娘が海辺で踊ってる(完全版)」

熱海に住む 女子高生2人、男子高生2人の 夏のストーリー。AKBに憧れる 自意識過剰な美少女 舞子は海辺の 田舎町で浮いている。日本舞踊が趣味の「ホトケの 菅原」だけが 唯一の友達であり、 強烈な 依存関係に陥っている。そんな中、三味線部の 笹谷、 古野との出会いは 契機となる。その音色が響いた時、彼女達が迎えるひと夏の 成熟を描く。

監督/山戸結希 音楽/富山優子 出演/加藤智子 上埜すみれ 若月悠 福本一馬

「Her Res 〜出会いをめぐる三分間の試問3本立て〜」


「映画バンもん!」

山戸結希WORKS



無数の暴力的なショットがささくれだったすべての人に教えてくれる、「僕たちはたしかに繋がってなんかない」と。入江悠(映画監督『SRサイタマノラッパー』シリーズ)

上智大学の女の子集団が作った『あの娘が海辺で踊ってる』は、セックスを嫌悪し、そこから遠ざかろうとしながらも、強烈にそこに惹きつけられる、という思春期の少女の姿が描かれる。少女たちの複雑な性はひりひりとしており、攻撃的で、観ているうちにめまいがしてくるが、しかしそれゆえ愛おしい。井土紀州(映画監督『ラザロ』『彼女について知ることのすべて』)

神話の起源には、伝えられるうちはなしが大きくなったにしても、もしかしたらほんとの出来事があったのかもしれず、それはもしかしたら小さな田舎町でおこった恋とか嫉妬とかだったのかもしれない。何千年、何万年か後、地球の文化に興味を持った知的生命体がいたとして、彼らからみれば古代ギリシャも21世紀の熱海もきっと誤差の範囲内だろう。オリュンポスの神々と並んで語られる、鬼神の如き舞子と菩薩の如き菅原…遠近感の狂った視点を感じるすごい作品でした。宇波拓(音楽家)

山戸結希の映画はキラキラしている。女の子の可愛らしさと毒々しさが、キラキラを振りまきながら欲望に向かってひた走る様(ほとんどアクション映画!)にはわくわくしながら圧倒される。彼女のキラキラした才能とギラギラした欲望を、ぜひみなさん体験してください。 池田千尋(映画監督『東南角部屋二階の女』『重なり連なる』)

少女が暗闇の海辺に立つショットに、何度も背筋がゾッとした。「こんなことして怖くないのか」。風景をグラグラ舐めるカメラにも、ゾクッとした。ど下手糞、と呟くが分からなくなる―これは映画への無欲さ故なのか、もしくは天賦の才なのか、その命知らずに見える映画への接触に目が眩んでいく。確かに山戸結希たちは“17歳”、故郷と命とが邪魔で仕方がなかった時期と、いま運命を共にしているように思える。熱海という署名的な土地でさえメッタ裂きにするカメラは、いま日本の“故郷”をかつて観たことがなかったやり方で空中分散させていき―あとには何も残らない。それは少女たちの肢体、表情、つないだ手までが二度と縫合不能になっていくように。踊りもせず、唄いもせず「立っているだけ」で聴衆を惹きつけられるアイドルになりたいと願った舞子の息切れだけが遊離し―この世界のどこへ向かうか分からずに彷徨っていく。それは技術も産業性もフィルムさえも、いま奪われつつある―この国の映画がどこへ向かうのか分からない、私達の問いのように。映画はいまどこへ行くのか?舞子は恐らくこの後、世界からの報いを受けるだろう。しかし断言したい。いま映画の命は山戸結希たちの名と、『あの娘が海辺で踊ってる』の瞬間と共にある、と。 木村文洋(映画監督『へばの』『愛のゆくえ(仮)』)

ぼくたちは生きているあいだに、何人の天才と出会うのだろう。「天才」はただひとりでは存在しえず、天からさずかった才能のもちぬしと、その才をみとめる人たちとのある出会いのかたちなのだと、なぜかふとそんなことを思う。山戸結希の規格外の脚力は、石英のように粗野に透き通った言語、音楽、映像のかなたに少女自身を追い越していまだ誰も見ない映画にたどりつこうとしている。山戸さん、ぼくたちはあなたに会いたかった。思う存分ぼくたちをカスタマイズしておくれよ。萩野亮(映画批評)

誰の映画かわかる個性がこの映画にはある。そうじゃない映画が多すぎるんだ。山戸映画としか呼べない個性。なんかその、自由さ、にやられたんだと思う。女の子と台詞もよかったなぁ。新しいです。俺は感動したし、笑ったし、嫉妬した。カスタマイズしておくれよ。★今泉力哉(映画批評『たまの映画』 『こっぴどい猫』)

においがした。青くて痛くてじんじんして届きそうで届かなくてあせって。そして前しか見えなくて。あふれる光が若さをつつみこんで透明な季節に色をつけた時自分自身の忘れかけてた季節を思い出してハッとした。★有馬和樹(おとぎ話)

AKB48に入るのを夢見る海辺の街の「アイドル未満」の少女を描いたこの作品は、「映画未満」だ。しかし、この「未満」を、どうして「青春」と呼んではいけない理由があるだろう?映画よりも輝かしい青春がここにある。新星・山戸結希監督の『あの娘が海辺で踊ってる』はアイドルの映画ではない。映画のアイドルなのだ。必見!!★中森明夫 アイドル評論家

僕は『あの娘が海辺で踊ってる』が大好きです。映画で描かれた時間と、映画を創る現場の時間、その両方に同じだけの魅力を感じました。時間そのものがみずみずしいというか。自分もこの映画の一人になりたいとさえ思ったのはそのためです。なによりもまずそこに人間がいるってことの賞賛にピントが合っている。本作の舞台となるひと夏の熱海さえ、そこにいる誰かに恋をしているかのようです。少女の長い黒髪は丘陵を吹き抜ける風が舞い上げます。やぼったい裸足は海岸線に打ち寄せる夜のさざ波が濡らします。未来にとっての廃墟でしかないジョナサンやカラオケボックスといった人工的な空間までもが、残酷な性を引き受けながらも恋に歌にはしゃぐ女学生たちのひと夏を無言で肯定しています。いうところの実在なんてあってないようなものなのに。そもそも人間とは尽きるところナニモノなのか?うまくいえないけど、この作品には故郷としての「月」が潜在している気がしてなりません。登場人物の各々が「自分は月からやって来た」と不意に我に返る覚醒の予感が本人たちの知らないところで熱海の海辺に漂っていなかったか。根拠のない郷愁、それと同じ月が僕の中にも潜在している。音楽的交感と言い換えてもいい。その辺のイシコロだって、月かどうかも分からないアレを先ずは「音」として捉えないとやってられないでしょ?だってあそこにしんと浮いてるだけで強烈な「音」ですよ。とにかくあそこには自分を語る上で重大なナニかがある。絶対に。それを確かめるためにも月に帰りたい。

「あの娘が海辺で踊ってる(完全版)」

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